原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年10月6日

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“Tags : 被告訴人浜口卓也,金沢市場輸送
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**** 原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年10月6日
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平成3年当時と現在とでは小木港の様子もずいぶんと違っていると思いますが、平成3年当時の私は金沢で生活していて実家の宇出津に戻るのも年に数回だったので、小木港に行くこともほとんどなかったと思います。

私が頻繁に小木港に行くようになったのは2010年の12月の20日頃からのことです。小木港の釣具店でアジング用の釣り道具を揃え、それからちょくちょくと小木港にアジを釣りに行くようになりました。

小木港では宇出津とは違い大きなアジが釣れるので、宇出津でも小木港までアジ釣りに行く人がいるとは聞いていたのですが、いくら魚が釣れても小木港まで行く気にはさらさらなれずにいました。

その2010年の9月の初めからはアオリイカ釣りを始めていました。アオリイカも小木港のほうがよく釣れるとは聞いていましたが、バイクで小木港まで行く気にはさらさらなれずにいました。

アジ釣りを始めた当初が、アジングでも大きなアジがよく釣れ、脂が乗って味がとても良かったのです。それまで食べてきたアジという魚の味の認識を根本から変えるような味でした。

また、小木港でアジ釣りをしていると昭和50年代、60年代の交友関係、友人関係についても記憶の喚起に役立つと思うようなこともあり、雪の降る寒い中大変ではありましたが、バイクで小木港に通うようになりました。

既に何度か書いていることだと思いますが、昭和の時代の小木港は遠洋漁業が盛んで、船の数も多く、遠洋のイカ釣り船と北洋のサケマス船がいました。サケマス漁の方は、「中部船」と呼ばれ、船体の色がオレンジ色になっていました。

小木港は今でも「イカの町」という看板が出ているほどイカ漁と縁のある町ですが、そのイカというのが船凍イカです。

船凍イカ – Google 検索 https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=%E8%88%B9%E5%87%8D%E3%82%A4%E3%82%AB

上記のように検索をかけると、出てくるのはほとんどが小木港に関する情報のようです。

小木港の船の数は昭和の時代に比べ激減していますが、今も遠洋のイカ漁は続いていて、宇出津のスーパーにも小木港の船凍イカは売っています。6月頃に出漁して12月に戻るという遠洋漁業の基本もほぼ同じかと思われますが、今はそれ以外の時期でも小木港で中型イカ釣り漁船の姿をみることもあります。

とにかく平成3年ころの小木港の様子というのが私にも想像がつかないのですが、二百海里問題以降、衰退はしていたもののまだ現在よりは船の数もイカの水揚げも多かったのではないかと想像されます。

とにかく金沢市場輸送では小木港に船凍イカを積みに行くことは一度もありませんでした。古い運転手の話では以前は行ったことがあるというような話を聞いたような気もするのですが、記憶は曖昧です。

金沢市場輸送では浜田漁業金沢工場のイワシの運搬以外では、殆どに近く能登の方に仕事に行くことはありませんでした。正月明けに蛸島港にイワシの鮮魚を積みに行ったぐらいです。あとたまに行くのは七尾市の市場ぐらいでした。果物を持っていくような仕事でした。

七尾市の方によく行くようになったのは市場急配センターで、平成3年の秋11月ころからのことですが、これは被告訴人東渡好信が配車係になったことと、その被告訴人東渡好信の口ききらしく七尾市の丸一運送の仕事をするようになったことがきっかけです。

行き荷のほとんどが七尾市だったようにも思います。積み込むのは七尾市の、能登木材の製材か、林ベニヤのベニヤ板のどちらかでした。積み荷の行き先はすべてが関東だったと思います。

帰り荷としても丸一運送の仕事と聞く、和歌山県かつらぎ町からのミカンが多く、手作業で他の運転手が嫌がる仕事だったので、私には個人的に集中的に回ってきていたようでもありました。これは小松市と七尾市の2箇所降ろしが多かったように思います。七尾市は必ずだったとも思います。

序に書くと、平成4年の2月ころからは石灰を積んでくる仕事があって、それも丸一運送の仕事だと聞いていました。私は栃木県の葛生市の山の方から3,4回、岐阜県の大垣市の山の方から2回ほど運んだように記憶しています。卸先は七尾市内、田鶴浜町、松任市の駅の近くがありました。

本書でも既に書いているところがあるかと思いますが、今年の8月の下旬にバイクで七尾市に行った時、田鶴浜町の国道沿いに、橋本商事という看板の出た倉庫が、当時と同じように存在していました。

そういえば今朝の10時過ぎの石川テレビの番組だったと思いますが、七尾市の市政10周年とかやっていました。旧七尾市、田鶴浜町、能登島町の合併になっていたように思います。中島町も現在は七尾市になっているような気もするのですが、田鶴浜町が以前七尾市とは別だったとは少々意外でした。

なお、金沢市から七尾市に向かうには能登有料道路を千里浜インターで降りて向かうことが多かったように思いますが、行き先が関東だと、そのまま海岸線の国道で富山県に入って氷見市から高岡市の国道8号線に出ていました。

国道160号線ということになるかと思います。石川県七尾市内から富山県高岡市につながる国道で、県境から氷見市の手前辺りまでは海岸線がほとんどだったように記憶しています。

富山県内を走る高速道路つまり北陸道は、石川県との県境から山の方を走り、国道8号線からも離れていました。滑川インター辺りになると国道8号線には近くなっていましたが、ほぼ交わるのは富山県で新潟県の県境の最終になる朝日インターでした。

昭和59年当時はその朝日インターが北陸道の最終インターで、新潟県の上越インターまでは高速道路が未開通になっていました。対面通行でトンネルも多かったですが、その間が開通したのは昭和63年ぐらいかと思います。

昭和60年の時点では関越道も湯沢インターが最終になっていて、その翌年ぐらいに開通したと記憶にあります。日本一長いという関越トンネルの開通でした。

その昭和60年か昭和61年の冬に、中西運輸商の4トン車で一度、湯沢インターから三国峠の国道18号線を走ったことがありました。トラックにはすれ違いも困難な狭いトンネルがありました。カーブも多くてずいぶんと時間がかかったように思います。

馬鹿のように時間も掛かったので、二度と通りたくはないと思うような三国峠でした。その昭和60年以来ということになるのかはわかりませんが、数年ぶりに通ったのが平成4年の2月の終わりか3月の初めのことで、大雪で関越道が通行止めになったために、しかたなく三国峠を走ることになったのです。

七尾市降ろしの石灰を栃木県葛生町から積んでいた時だったと思います。三国峠など国道18号線の方も渋滞がひどくて、湯沢インターのあたりに出たのは翌日の昼頃にもなっていたと思いますが、午後の明るい時間のうちには七尾市で荷物を降ろすことが出来たようにも記憶にあります。

その時は七尾市内の丸一運送の会社の方で、他のトラックに石灰の荷物を積み替えたか、パレットで仮置きをしたように思います。丸一運送の会社にはこの時を含め、2回かあるいは3回行ったことがありました。

どの時だったかわかりませんが、丸一運送の配車係か事務所の幹部社員のような年配の人がいて、被告訴人東渡好信のことをよく知り、あるいは心配するような感じで話をしていました。幼なじみとも思えるような親しく長い付き合いの関係にも見えました。

時期的に、被告訴人東渡好信が失踪をするような不可解な行動をやっていた時期に重なるかとも思いますが、そのことを案じて、私に声を掛けていたようにも思います。やはり心配するような表情であったと今はぼんやりした場面になっていますが、記憶に残っています。

被告訴人東渡好信に関しては後回しにして、今は被告訴人安田敏に関する説明をメインにしています。

七尾市から国道160号線で高岡市の国道8号線に出ると、私は小杉インターから北陸道にのることが多かったと思いますが、その時の気分では滑川インターまで行っていたかもしれません。小杉インターは富山インターの一つ手前で、富山インターの一つか二つ先が、滑川インターだったと思います。

市場急配センターでは基本的に高速道路は自由に利用ができていましたが、被告訴人東渡好信が節約とか言い出して、新潟県上越市から山の中の国道を走って、六日町インターから関越道にのることもありました。その道は金沢市場輸送に頃にもたまに使っていました。

Googleマップで確認したところ国道253号線になるのかと思います。松代とか十日町を通って、六日町の町の手前から関越道にのっていたように思います。3桁の国道でしたが、割と広い道で、豪雪地帯でしたが、特に難所はなかったように思います。

金沢市場輸送の頃は、六日町インターから関越道にのると、群馬県内の花園インターで降りることがほとんどだったとも記憶にあります。茨城県水海道市にアルミサッシを運ぶ仕事が多かったとも思いますが、埼玉県桶川市から移転した新しいアルミサッシの配送センターのような倉庫でした。

Googleマップで確認したところ水海道市は現在、市町村合併で常総市となっているようです。谷和原インターというのも思い出しました。アルミサッシの荷降ろしを終えた後、よく利用していた常磐自動車道のインターだったと思います。

その谷和原インターの近くに最後に行ったのは、被告訴人浜口卓也と一緒に日清製粉の工場に行った時でした。平成3年の11月の中頃ではなかったかと思います。

日清製粉という社名になっていたように思いますが、カップ麺でお馴染みの会社です。国道6号線で取手市だと思いますが、茨城県内に入るとすぐ左側に日清製粉の目立つ工場か倉庫のような建物があることは、以前からそこを通って知っていました。

仕事でその取手市の日清製粉に行ったのは初めで最後だったのですが、富山県の富山市の郊外に位置する富山インターから国道41号線を岐阜県の方に向かって3,40分ほど走った辺りで積み込んだカップ麺の容器のような荷物を積んでいました。

被告訴人浜口卓也とは午後に金沢を出発して、私は富山インターで降りて荷物を積みに行ってのですが、被告訴人浜口卓也はその先のサービスエリアで私が来るのを待っていたように思います。彼も自分の担当になった大型ウィング車に乗務していました。

被告訴人浜口卓也がどんな荷物を積んでいたのか憶えてはいませんが、とにかく一緒に茨城県取手市の日清製粉に行き、国道6号線沿いの日清製粉のすぐそばにトラックを駐めて、どちらかのトラックの中でコンビニで買った弁当を食べながら一緒に話をしながら缶ビールを飲んでいたことを憶えています。

被告訴人浜口卓也も日清製粉の荷降ろしだったと思うのですが、荷物の積み込み先が違っていたか、積み込んだ日が違っていたようです。

茨城県取手市の日清製粉で荷降ろしした後のこともよく思い出せないのですが、私は谷和原インターの付近を懐かしいと思いながらトラックで走行していた場面の記憶は残っています。

私は同じ茨城県の古河市の市場に行った可能性が高いかと思いますが、被告訴人浜口卓也とは別行動の仕事になったと思いますし、そもそも古河の市場で被告訴人浜口卓也と一緒になったことは、一度もなかったようにも思います。

古河の市場の山三青果の仕事はそもそも市場急配センターの仕事のメインだったのですが、私は被告訴人安田敏とも古河の市場では一度も一緒になることがなかったようにも思います。

山三青果の定期便の運賃は大型車で12万円とも聞いていたように思います。もとは平成2年の12月頃から金沢市場輸送に市場急配センターが請け負わせていた仕事だったのですが、運賃がよく売上がいいので、金沢市場輸送に任せるのが惜しくなったという話を聞くこともありました。

本書でも既に説明しているところがあるかと思いますが、金沢市場輸送でやっていたころは、日通高柳店からの埼玉県岩槻市、千葉県千葉市の二箇所降ろしの日通の定期便と、小松店、金沢店の二箇所積みでの栃木県宇都宮市へのトナミ運輸の定期便というほぼ同時期の二つの定期便とセットになっていました。

日通やトナミ運輸では、他に福岡への定期便や仙台への定期便もやっていたので、記憶が混同している部分もあるかもしれませんが、仙台への日通の定期便は、富山県高岡市だったと思います。

富山中央店からの福岡への定期便はウロコ運送との一日交代で前からやっていましたが、西インターの金沢店からも福岡への定期便をするようになっていたかと思います。富山中央店からの定期便とは違い、片道だけの定期便だったとも思います。

その頃は仕事が多いピークの時期だったとも思いますが、すべて金沢市場輸送のトラックでやっていたわけではなく、傭車と言い他の運送会社のトラックを使うことも多くなっていました。

特に多かったのは富山県氷見市の堀安商店という運送でした。大型車4台程度の小さな運送会社でしたが、緑ナンバーだったと思います。もともとは鮮魚専門のような会社でした。

堀安商店の方は、逆に仕事をもらうこともあって、氷見の漁港に鮮魚を積みに行くことがありました。東京の築地が多かったと思いますが、一度、シイラを満載にして福岡と熊本まで運んだことがありました。シイラは全国的にも人気がない魚で、買い手がないという話も聞きました。

堀安商店には3,4人の顔なじみの運転手がいたと思います。6トン車も一台はいたようにも思います。堀安商店の会社にも行ったことがありました。堀安商店の運転手とは福岡の魚市場で顔を合わすこともよくあったように思います。

同じ時期、傭車でよく金沢市場輸送に来ていたのは小木運送の新出さんでした。新出というのは小木や越坂に多い名前でしたが、一度聞いた話では珠洲市の若山に家があると話していました。

その頃は金沢市や県外の方で小木運送のトラックを見かけることも割と多かったように思いますが、金沢市場輸送に傭車として出入りするのは新出さんだけでした。新出さんは10トン車に乗務していましたが、他の小木運送のトラックでは6トン車を見かけることが多かったようにも思います。

小木運送という名前で運送会社のようですが、会社としてのシステムやあり方は、普通の運送会社とは違っていて、小木港での船凍イカの仕事が暇な時期は、自分で仕事を探してきてやりくりするしかない、というような話も聞いていたように思います。

小木運送でも新出さん個人との仕事のやりとりという感じでしたが、金沢市場輸送では小木運送の仕事をすることもなかったし、既に書いたように小木港に仕事に行くことも一度もありませんでした。

被告訴人本恒夫と新出さんとの個人的な関係と言ったほうが良いかもしれません。どこでどのように知り合い、傭車をするようになったのか具体的なことを聞いてはいないようにも思いますが、新出さんとは個人的に話をする機会も割と多かったので、憶えていないだけで聞いていたこともあるかもしれません。

越坂出身だと聞くKSさんも小木運送で大型車に乗務していたと聞いていましたが、その時期というのははっきりしません。同じぐらいの年の女の人と結婚をしていましたが、その妻というのは小木運送の金沢の支店で事務員をしていたと聞きました。

妻は金沢市の出身とうことで、何かの機会にその実家という家に遊びに行くこともありました。西念町でしたが、中央市場からは離れた場所で、北安江に近かったと思います。

KSさんと初めて会ったのは昭和59年の6月だと思います。金沢港のスルメイカの仕事では山形県の酒田市に行くことも多かったのですが、一度、珠洲市三崎のHMを連れて行ったことがありました。たぶん彼は失業中だったと思います。

酒田市は山形県でも日本海側にあります。その帰りだったと思いますが、新潟県の柿崎町から上越市に入った辺りの国道8号線沿いに、右手にラーメン屋がありました。そのラーメン屋で一緒になったのが越坂のKSさんでした。

その時、越坂のKSさんは中西水産輸送の10トン車保冷車に乗務していました。中西運輸商と大書きした2台ある保冷車の一台でした。いずれも日産ディーゼルのトラックで見た目はほとんど同じだったと思いますが、中身はずいぶんと違うものになっていました。

その一台というのは10トン車の車体に、トレーラーのエンジンやミッションを搭載したものでギアが10段あるものの、ギア比が低いため最高速度が90キロしか出ないというような話でした。

同じ頃ではなかったかと思いますが、宮城県の石巻の冷蔵庫で、中西運輸商の保冷車と一緒になり、その積み込みを手伝ったり、話をしたことがありました。当時の長距離トラック運転手としては最高齢に近く、50歳近いような話でした。現在の50歳の感覚とはまるで違います。

名前の方は思い出せなくなりましたが、珠洲市の鵜飼辺りの出身とも話していたと記憶にあります。ちょっと風変わりな人でしたが、サウナに寝泊まりしながら生活しているとも話していました。

その時も冷凍のエサを保冷車に満載にしていました。段ボールケースにも入っていない小魚の冷凍で、メギスのような色の悪い小魚の冷凍物であったとも印象に残っています。

昭和59年で私が金沢市場輸送の4トン保冷車に乗務していた頃のことですが、その頃、石巻に行ったのは2,3回だけだったと思います。その一度は、既に書いていると思いますが、被告訴人大網健二と生マグロを積みに行った時のことで、興勝運輸の仕事でした。

興勝運輸は飾りの多い立派なトラックでしたが、会社の方は石巻港でもずいぶんと離れた場所にありました。昭和61年頃にはすでに倒産して会社がなくなったと聞いていました。

その石巻の冷蔵庫で一緒になったのがトレーラーのミッションをつけた10トン車だったと思います。その運転手の人も、私が中西運輸商で4トン車に乗務していた頃に、しばらく会社に戻って同じトラックに乗務していたことがありました。けっこう気ままに出入りを繰り返しているような話でした。

印象に残っているのは冬だったと思いますが、中国自動車道を走行中にトラックのフロントガラスが全部割れ、顔にタオルを巻きつけて走ってきたと話していたことです。

越坂のKSさんは私より年が3つか4つ上だったと思います。初めは金沢市場輸送で4トン車に乗務していたとも聞いたように思いますが、水産高校を卒業したばかりの蛸島のTSさんと一緒だったとも聞いていたように思います。

すでに書いているかと思いますが、蛸島のTSさんが水産高校を卒業したのは昭和56年のことで、それは私が小木分校を中退して、金沢市に出た年と同じでした。

被告訴人大網周一と二人でいたところ、蛸島のTSさんが運転するジャパンというスカイラインだったと思いますが、それに乗せてもらい、問屋町のガソリンスタンドの寮まで送ってもらったことがありました。その時、助手席にいたのが当時は名前の他あまりしらなかった被告訴人安田敏でした。

そういえばということで思い出したのですが、金沢市場輸送で傭車の仕事をするようになった当初の越坂のKSさんは、中西運輸商でトレーラーのミッションをつけていた10トン車を払い下げで買い受けて、それに乗務していたように思います。

バイクの改造車のように自分でスプレーで塗装したようなボディのカラーになっていて、中西運輸商のトラックという面影はなくなっていたとも思いますが、そういうふうに聞いたように思い出しました。

私の記憶も薄くなっていて余り自信は持てませんが、初めはやはりその10トン車だったとして、金沢市場輸送での傭車の仕事をするようになってからは、そう長い間その10トン車には乗務しておらず、まもなくトレーラーに買い換えていました。

トレーラーの本体は新車だったと思いますが、荷台の保冷の箱の方は古い中古の物を使っていたように思います。10トン車もそのトレーラーも白ナンバーだったと思います。

個人の持ち込みという言い方もされていたかと思いますが、越坂のKSさんが独立して個人のトラックを保有するようになったのは、石巻からエサを運ぶ仕事がしたかったからだと話していました。初めは興勝運輸から仕事をもらっていたとも聞いたようにも思いますが、これも私の記憶がぼんやりしています。

とにかく昭和59年ころまでの大型保冷車の仕事というのは、エサの仕事が多かったと聞いています。私が金沢市場輸送で大型保冷車に乗務したのは昭和62年4月のことで、その頃のはエサの仕事自体がほとんどなくなっていて、私自身、エサの仕事というのは一度もすることがありませんでした。

話としては年配の運転手からよく聞いていたのですが、主に石巻港の冷蔵庫からエサを満載に積み、それを鹿児島県や宮崎県あるいは大分県のハマチの養殖場まで運ぶという仕事で、四国の宇和島の方にも行くとも聞いていました。

たいていは片道一週間ほど掛けて、大半はフェリーに乗って、のんびりと運ぶ仕事で、月に4回ぐらいしか出来ないけど、そこそこ収入にもなるような話でした。

本来は大半をフェリーの利用にするというのが常識だったようですが、それを全線高速道路でやろうと考え、トレーラーのエンジンやミッションに改造することを考え、実行したのが中西運輸商の社長の発想だと聞いていました。箱の方も丸みを帯びて変形していたような記憶があります。

これもそういえばということになるかと思いますが、越坂のKSさんは、金沢市場輸送で姿を見かけなくなってしばらくしてから、輪島屋鮮冷の仕事をしているらしいと聞いたようなことも思い出しました。

金沢市場輸送では基本的に鮮魚の仕事が多かったので、KSさんとしてはそれも好きではなかったようです。トレーラーがスピードの出せるものではなく、時間に遅れてしまうことを気にかけていたのかもしれないですが、冷凍物を運ぶのが好きだったようです。

金沢市場輸送では妻子を連れて会社に来ていることも多かったKSさんですが、蛸島のTSさんが自殺をしたという新聞記事が出た時は、他の誰よりも驚き、ショックを受けた様子に見えました。その時は珍しく金沢市場輸送の事務員のいる事務所の中にいて、そこには竹林と大西さんの姿もありました。

他の女性事務員などの姿が見えなかったようにも記憶の場面にはあるので、今考えるとそれは休日だったのかとも思えます。午前中の朝に近い時間だったとも思いますが、そんな時間に運転手が集まっていたというのも、あまりないことかとも思います。

私も朝アパートで新聞を見てその自殺のことを知ってから会社に行ったのですが、朝の早い時間での出社というのも金沢市場輸送では余りなことであったように思います。夜から深夜の時間の仕事が多かったので、そうなるわけです。

運転手は運転手の控室のような部屋があり、勝手口のような出入口があって、ほとんどはそこから出入りをしていました。事務所の方に人が集まっていたのは、あるいは新聞記事を見るために新聞のある事務所の方に集まっていたのかもしれません。

エサの仕事というのはキロあたりの運賃になっていると聞いていました。いい時期はキロあたり20円からそれ以上と聞いていたようにも思いますが、それが12円ぐらいまで下がっていると聞いていたようにも思います。

30トンでざっと計算すると単純に片道60万円という運賃になりそうです。フェリー代などの経費も必要だとは思いますが、フェリーに乗っている分には燃料代も浮きそうです。慣れたらやめられない仕事だと聞くこともありましたが、重量オーパーで捕まる危険も高く、事故の危険も高くなります。

私は4トン車でもブレーキーが焼けて煙が上がるという経験を何度かしているので、よくわかるのですが、運転は下り坂の場合特に神経を使うというより神経をすり減らします。運転技術と腹のすわった注意力も人一倍必要になるかと思います。一度加速がつき過ぎたらその時は終わりかもしれません。

エサの仕事がなくなったとか運賃が安すぎると聞くようになってからは、全体的な運送の仕事が増えていきました。ちょうど日本の国全体がいわゆるバブル景気へと突入していた時期になるのかと思います。

仕事はいくらでもあると言われるような時期になり、そのうち傭車と言って、実際の仕事だけを他に請け負わせて手数料をとるという仕事も増えていったようです。時代の先を読んでいたのか、それを先駆け徹底していたのも中西運輸商かと思います。

既に書いているかと思いますが、自社のトラックや運転手ですら傭車の一部のような扱いの別会社として中西水産輸送にしていると聞き、傭車など配車の手配を主体とする会社を中西運輸商という会社にしていると聞きました。どちらも有限会社ではなかったかと思います。

中西運輸商の真似をしたのか参考にしたのかもわかりませんが、金沢市場輸送の本恒夫も規模は小さいものの似たようなことをやって、傭車に仕事を回すようになっていきました。

そして金沢市場輸送の運転手の中でもトラックの払い下げを受けるなどして、持ち込み運転手として仕事を請け負おう運転手も何人か出てきました。きっかけは持ち込み制度を先駆けていた守田水産輸送の引き抜きでもめたことだったと思います。

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