原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年10月1日

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**** 原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年10月1日
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いつ頃から輪島屋鮮冷のトラックが金沢市場輸送の仕事をするようになったのか、はっきりとは思い出せないのですが、なにがきっかけで仕事上の付き合いが始まったのか、話を聞くことはなかったし、運転手の間で話題になるようなこともなかったと思います。

輪島屋鮮冷と金沢市場輸送の関係については話を聞かなかったのですが、輪島屋鮮冷という会社に関しては運転手の間で話題になり、話を聞くことがありました。幾つか話を聞きましたが、どの話を誰から聞いたのかとなると、はっきりしないところがあります。

輪島屋鮮冷というのは、その名の通り同じ石川県の能登半島にある輪島市をイメージする人が多いかと思います。もうひとつは私が中学生の頃の昭和50年代前半に大相撲で北の湖とともに横綱として活躍した石川県出身の横綱輪島がいました。

私自身も昔は普通に輪島という名前の通り、輪島市出身の人物かと思っていたのですが、そのうち誰かから七尾市の石崎の出身だと聞きました。意外感もあったので、石崎のことも併せてよく憶えています。

輪島大士 – Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%B3%B6%E5%A4%A7%E5%A3%AB

上記ページに詳しい情報がありました。思っていたよりまだずいぶんと若く、昭和23年生まれの66歳とのことです。姉か妹の金銭問題が大きく取り沙汰されていたのは、やはり昭和57年ころとなりそうです。

金沢の片町に「相撲茶屋輪島」という店を姉か妹が開き、それがトラブルの原因になったとか、閉店したとか聞いていたように思います。バナナビーチというディスコがあったビルと同じか、隣接したビルの一階にある店だったと思います。

ついでになりますが、その「相撲茶屋輪島」があったと思われるビルのあたりでは、昭和61年の年末に、金沢市場輸送で忘年会が開かれたことがありました。元は同じ店だったのかもしれないと思っていました。「雪国」という演歌の曲が流行っていた頃のことです。

それと同じビルか、もうひとつスクランブル交差点側のビルの3回ぐらいの若者向けの飲み屋では、被告訴人大網健二の結婚式の打ち上げがありました。生のバンド演奏もあったように思いますが、そういう雰囲気の店でした。

その店の方では結婚式に出席していなかった友人も集まっていて、その中には後に片町の飲み屋を舞台にした薬物売買で逮捕されたと大々的に報じられたOYの姿もあったと思いますし、薬物犯罪の舞台になったという片町の飲み屋かディスコも、同じ辺りの場所だったという私のイメージになっています。

平成9年か平成10年に、被告訴人KYNが、そのOYのことを、連中はもっと悪どいことをやっていると言いながら、薬物売買の事件のことを吐き捨てるように話していたことは印象的なのですが、その薬物事件の時期というのは、私の記憶がはっきりとせず、まだ調べていません。

私がOYと会ったのは、私の長距離トラックの仕事が忙しくなってからで、多くて4,5回程度ではなかったかと思います。その殆どで東力の「かつとし」がいたように思います。ずっと気にかけているのですが、未だに上の方の名前を思い出すことが出来ません。

「かつとし」は大柄な体格だったと思います。父親が日通の幹部社員のように聞いていたようにも思います。既に本書でも触れたことがあると思いますが、「かつとし」という名前は出してはいないと思います。OYと違い、名前を思い出せないので、特定が困難です。

OYもかつとしも、同じ歳の同級生だと聞いていたように思いますが、他にも関係性などいろいろ聞いていたように思いますが、思い出せることはほとんどありません。

最後に東力の「かつとし」の話を聞いたのは、会社を定年退職した父親と一緒という話だったようにも思うのですが、その退職金とかで、金沢市の大額の大通りに居酒屋のような店を出したという話でした。

金沢市三馬の方から四十万にその大通りを向かうと、左側に店がありました。私はその店を見ていますし、一度店にも入ったような気もするのですが、実際に店に入ったのか、店の中の様子を想像した場面だったのか、記憶がはっきりしなくなっています。

店の名前はよく憶えています。とてもわかりやすい平仮名二文字の店の名前だったからです。「輪島」にもイメージがゆく店名ですが、名づけた理由などに関しては話を聞くことはなかったように思います。

3,4ヶ月ほど前になりますか、その店の名前で検索をしたことがあったのですが、同じ名前の店は出てきたものの、金沢市内でも西金沢駅に近い辺りだったように思います。

「さらに初代若乃花や輪島らの横綱を陰で支えた先代師匠の妻・中島トミが1986年5月23日の夕刻に首を吊り自殺するという悲劇を生んだ。」(前出のWikipediaページからの引用)

昭和61年5月ということで上記の問題は、私が被告訴人安田敏を頼って岐阜県海津町に行くより前ということになりそうです。同じ年にプロレスに入り、更に読むと昭和63年12月に引退したようです。

輪島屋鮮冷の4トン車で長距離乗務をするようになっていた珠洲市三崎のHMが、元横綱輪島の不祥事が世間の注目を集めていた時期で、東京都内を輪島屋鮮冷のトラックで走行していると、信号待ちで注目されることが多くて恥ずかしい、と話していたことがありました。

何度か書いていると思いますが、珠洲市三崎のHMは、輪島屋鮮冷と守田水産輸送の間を何度か、行き来していました。

守田水産輸送は金沢市西念の中央市場の前に会社があって、中央市場のなかでの仕事が多かったので、ちょこちょこと顔を合わせることはあったのですが、輪島屋鮮冷のトラックを中央市場のなかで見ることは、ほとんどなかったように思います。

金沢市場輸送と同じ保冷車でも、鮮魚を積むことはほとんどなく、冷凍物がほとんどだと聞いていましたが、目一杯重量を積んでいるとも聞いていました。これは守田水産輸送の4トン車と同じでした。守田水産輸送の場合は鮮魚の定期便もやっていたという違いはあります。

金沢市場輸送でも冷凍物は運んでいましたが、割合は少なかったです。ここでは冷凍食品と冷凍物の違いを、私独自の視点から説明したいと思います。

冷凍食品も運ぶことがありましたが、私の経験ではどんな冷凍食品でも割と軽いもので、かさもあるので満載にしてもさほどの重量にはならなかったと思います。

例えば、下関から珍味の原料となるカワハギの冷凍を運ぶことがありましたが、個々のケースは割と重みがあると思うものでも、満載に近くして18トンぐらいだったように思います。

重みのある冷凍物は、イカや蒲鉾の原料となる鱈の冷凍すり身でした。イカは外国からの輸入のものがほとんどだったように思います。蒲鉾の工場は、金沢や富山の市場の近くにもありました。

重量で言えば、冷凍の牛肉も重かったですが、当時は輸入の肉を運ぶということもたまにしかなかったように思います。ブロイラーと呼ばれる鶏肉は昭和59年ころは、金沢市場輸送でよく運んでいました。あれは余り重くはなかったような気もします。

守田水産輸送や輪島屋鮮冷の4トン車では、8トンから10トンの積載をすることが多いと聞いていました。当時の4トン保冷者というのは正味3トンも積めなかったと思いますので、普通に2台分から3台分の荷物を一台で運んでいたことになります。

輪島屋鮮冷に関しては、何を主に運んでいるのか、よくわからなかったですが、それだけの重量となると普通の冷凍食品とは考えにくいと思っていました。トラックもよく見かけていましたが、冷蔵庫のほかは特定の会社とかは余りみなかったように思います。

誰から聞いたのか思い出せなくなっていますが、輪島屋鮮冷の社長というのは、丸西水産輸送で配車係をしていたといい、元は運転手をしていた大きな事故を起こし、飼い殺しの状態になっていたとも聞いていたように思います。伝聞なので情報の正確性も不明ですが、聞いたのは一人で一度だけ。

親戚に大手の冷凍食品会社の幹部社員というか上の立場の人がいて、その取引関係をつてに独立して輪島屋鮮冷を始めたとも聞きました。ニチレイと聞いたようにも思いますが、これも真偽は不明です。

私の経験としては初めに輪島屋鮮冷の4トン車を見かけるようになったのは、前にも書いているはずですが、金沢港の県漁連の前でした。食堂の前辺りだったと思いますが、いつものように2台か3台の同じ輪島屋鮮冷の4トン車が駐車していました。

ただ、売り場の方でスルメイカというか鮮魚を積み込んでいるような状況は見た記憶がなく、その辺りもちょっと不思議に感じていました。富来の西海港の「牛若丸」という4トンの白ナンバーの保冷車が駐車していた場所と時期も重なるように思います。

輪島屋鮮冷の4トン車は普通の保冷車で保冷の箱の容積が他より大きかったとは思えませんが、冷凍食品だとどれだけ満載にしてもさほどの重量にはならず、せいぜいで5トンぐらいではなかったかとも思われます。

冷凍食品といってもいろいろとありますが、私もいろいろの冷凍食品を積み込み取り扱った経験があり、普通に考えてもずっしりと思い氷の塊のような冷凍食品というのは、加工食品として考えにくいと思います。

重量のある冷凍物として有名だったのは今もありますが、宇出津に近い小木港の船凍イカ(船内凍結イカ)でした。私自身、小木港に船凍イカを積みに行く機会は一度もなかったので、実際に小木港から運んだことは一度もありませんでした。

小木港には今もあると思いますが、小木運送というトラックがあります。緑ナンバーの運送会社のようになっていましたが、実質は運転手が個人でトラックを保有し、会社としての名義で緑ナンバーを取得しているような話になっていました。

私がトラック運転手を始めた昭和59年には、白ナンバーの社会問題は過去のものになっていましたが、以前はいろいろと問題にされ、摘発にもなっていたと聞いていました。

中西水産輸送もその白ナンバーの問題で摘発され、会社が潰れたと聞いていました。復活した中西水産輸送では佐川急便の雑貨の仕事をするようになっていました。物置にされたいた古い保冷車の箱には大洋マルハとか書いてあり、マルハの冷凍物を運んでいたとも聞きました。

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