原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年9月25日

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記述は9月19日の続きになるかと思います。丸西水産輸送の社長の射殺の事件は北國新聞によると、場所が片町でもラブロ裏、新天地と呼ばれる辺り、ということになっていました。

この新天地という地名ですが、私はけっこう最近になって知りました。インターネットで石坂について調べていたところ、その新天地なる場所の情報が出てきたのが初めてでした。石坂については本書で、何度か取り上げていると思います。被告訴人竹沢俊寿の家があると聞く、辺りでもありました。

金沢市片町 新天地 – Google 検索 https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=%E9%87%91%E6%B2%A2%E5%B8%82%E7%89%87%E7%94%BA%E3%80%80%E6%96%B0%E5%A4%A9%E5%9C%B0

上記のキーワードで検索をするといろいろ情報が出てきましたが、やはり平成3年12月21日の夜に、被告訴人浜口卓也に連れて行かれた確かおでん屋のような店のあたりということになりそうです。

片町でも私はほとんど足を踏み入れたことのない場所でした。もう少し香林坊の映画街の方に行くと、車でよく通行していた長町の方に出る裏道のような狭い道路があったとは記憶しています。

長町の辺りというのは、武家屋敷があってちょっとした観光地のようにもなっていると思いますが、その辺りは市内配達の仕事でも、通行することがありましたので、土地勘もあったつもりですが、余り行くような場所ではなかったです。

自分の場合、市内配達でも片町は受け持ちのコースだったので、他の辺りの小路は配達のトラックでもよく通っていました。竪町の長崎屋というスーパーにもちょくちょく配達に言っていましたし、スナックのような飲み屋でもフルーツにするような果物を配達するような店もあったかと思います。

被告訴人安田敏が最初に片町でバーテンをしていたという「ハートブレイク」という店に関しては、彼の説明を聞きながら、ラブロの裏の辺だという認識でいました。

一方で、その後でバーテンの仕事をやっていたという「ラバズバ」という店は、被告訴人安田敏の話しぶりによると、片町でも外れの方で、竪町から金沢市役所の裏の辺りと聞いていたように思います。

竪町の周辺というのはファッション関係の店も多く、若者が多く集まる場所というイメージがありますし、実際に行くと見かけるのは若者の数が多かったと思います。市役所の近くでもあったので、そういう用事なので、幅の広い人が集まるイメージもありました。

私がその辺りにちょくちょく行っていた頃というのは、まだ石川県庁も金沢市役所の道路を挟んで斜め向かいあたりにあったので、県庁が鞍月の方に移転してからは人の数も減ったり、その辺りの雰囲気も変わってはいるのかもしれません。

いずれにせよ、被告訴人安田敏は「ラバズバ」という店の場所について、やたらと詳しく具体的に説明をしていたと思いますが、私の記憶が薄れてはっきりしなくなっている部分もあります。

「ラバズバ」という店については、被告訴人安田敏が市場急配センターで市内配達の仕事をするようになってから話を聞くようになったはずです。

そもそも被告訴人安田敏から連絡があったのはゴールデンウィークの少し前で、平成3年の4月の下旬だったと思います。4月の終わりから連休が始まるはずですが、その直前には、被告訴人安田敏の金沢市場輸送への入社が決まっていたという記憶があるからです。

夕方でも遅い時間で外もすっかり暗くなっていましたが、金沢市場輸送の運転手の休憩室の外から入ってすぐの机の場所で、被告訴人安田敏が私の立ち会いのもと面接を受けていたという場面が記憶に残っています。

金沢市場輸送の社長になっていた被告訴人本恒夫が主に面接をしていましたが、周りに3,4人の人の姿があったようなこともぼんやりと憶えています。誰だったのか思い出せなくなっていますが、いずれも会社では発言力もあるような立場の顔ぶれだったと思います。

あるいは被告訴人松平日出男の姿もそこにあったのかと思いますが、被告訴人本恒夫と犬猿の仲とも言われていた被告訴人松平日出男の姿が、その場にあったということは、割と珍しかったようにも思えます。

麻雀のメンバーとして被告訴人松平日出男の姿を見ることもあったようには思いますが、金沢市場輸送の事務所で被告訴人松平日出男の姿を見かけることは、数の少ないことで、私自身数回しか経験していなかったようにも思います。

麻雀のメンバーとしてしょっちゅう見かけていたのが被告訴人東渡好信でしたが、それはちょうどストライキのごたごたがあったころで、ストライキを先導した首謀者とも言える、被告訴人東渡好信がその場にいたことは、可能性が低いとも思えます。

当時の状況を具体的に説明するにも23年以上経過した現在では限界もありますが、記憶が新しいうちに詳細に記述したとおり、ストライキは、被告訴人安田敏を招き入れるための計画的なお膳立てだった可能性が高いと思います。

初めに被告訴人安田敏から電話での連絡があってから、その金沢市場輸送への面接までの間、4,5日ぐらいだったようにも思いますが、一週間から長くて10日ぐらいあったかもしれません。

初めに電話を掛けてきた時、被告訴人安田敏は同じ金沢市内の運送会社「輪島屋鮮冷」で4トン車の長距離をやっていると話していました。

その数日後、実際に被告訴人安田敏が輪島屋鮮冷の4トン車を運転して、金沢市場輸送に来て、冷凍物の積み替えをするということもあったので、本当に4トン車で長距離の仕事をしているのだと、私は疑いもなく信じました。

金沢市場輸送と輪島屋鮮冷の間で、仕事のやりとりが始まったのは、その平成3年のはじめかあるいは前年の平成2年の終わり頃だと思われます。

今改めて考えると、時期的にも被告訴人東渡好信と関連があって始まった輪島屋鮮冷との仕事の関係だったのかもしれません。

輪島屋鮮冷のトラックを初めに見るようになったのは、金沢港の県漁連の売り場の前でした。早ければ私が長距離の仕事を始めた昭和59年のことです。時期は6月か7月だと思います。

ごくまれに他の時期もありましたが、金沢市場輸送で金沢港に鮮魚を積みに行くのは、毎年6月か7月の初めのスルメイカの時期だけでした。

金沢港では鮮魚の出荷はほぼ毎日あったはずですが、夜の22時とかのセリで、新潟、名古屋、大阪への運搬がほとんどで、それは運送会社ではなく、セリの仲買いである新田商店や直一商店が自分の会社の白ナンバーのトラックで運んでいました。

金沢市場輸送で例外的に鮮魚を運んだ時も、荷主は新田商店でした。

昭和59年の時は、中央市場の丸中水産の仕事としてスルメイカを運んでいた記憶があります。若旦那のような若い社長の姿もありました。

既に書いていると思いますが、昭和61年には丸中水産の仕事はなくなっていました。毎日の新潟定期便があったのですが、丸中水産の方から守田水産輸送に乗り換えられたという話でした。

8月だったような気もするのですが、昼前に金沢港でスルメイカではないサバなどの魚を大型車に積み込んでいたことがあり、新田商店の若い社員のフォークリフトの運転で危ない思いをしたことから、私が文句を言ったところ、蛸島のTSさんが飛んできて威嚇を受けたようなことがありました。

それが蛸島のTSさんに会った最後だったと思います。私は昭和63年の12月の20日頃まで、7599という車番のイスズの10トン保冷車に乗務していました。サバなどを積んでいたのもその保冷車です。

金沢市場輸送では担当のトラックが決まっていて、特に大型車では自分が担当するトラックを他の運転手が乗務することはなく、私の場合も私が担当である間、私以外に乗務することはなく、仕事を休んだという記憶もほとんどありません。

蛸島のTSさんが珠洲郡内浦町の松波の港で、買ったばかりの赤い色の軽四で海に飛び込んで自殺をしたという新聞報道を見たのも、最後に金沢港であってから半年ぐらいあとで、やはり平成1年の1月ころと思われます。

先日も他の記事の探しもので宇出津の図書館に行った時、平成1年1月の北國新聞の縮小版を、丹念に調べ直したのですが、蛸島のTSさんの自殺の記事を見るけることは出来ませんでした。

輪島屋鮮冷の話に戻しますが、初めは4トン車を2台ほど見かける程度でした。次のホームページにもトラックの写真がありますが、基本的なデザインは、初めて見た時からほとんど変わりがないように思います。

輪島屋鮮冷(株) http://wajimaya.co.jp/index.html

ホームページにあるのは大型車のそれもトレーラーのようですが、箱に書いてある文字の大きさの割合が、以前よりは若干小さくなっているような気もします。いずれにせよ大きな文字で書いてあるので、目立つと思います。

中西運輸商の保冷車も「中西運輸商」と大きな文字では書いてありました。

企業情報|輪島屋鮮冷(株) http://wajimaya.co.jp/company-history.html

上記ページの「沿革」には、「昭和60年 4月 金沢市神野にて資本金7,600,000円で設立」とあります。

金沢の国道8号線バイパスで、小松方面に向かうと金沢西インターを超えると、すぐにバイパスが左に大きくカーブし、北陸自動車から分岐しているのですが、そのカーブを超えてすぐ左側に、新しいアパートがあって、それが輪島屋鮮冷の会社というか事務所になっていました。

場所としてもよく通る目立つ場所でしたが、全くのアパートを会社の事務所にしているというのも、他には見たことも聞いたこともなく、型破りな会社として目立つ存在でした。

宇出津に住んでいると目立つ輪島屋鮮冷のトラックを見ることもなかったので、一年ほどまでしようか、ふと思い出して検索で調べたところ、全国展開するほどに大きくなっていて驚きました。

序になりますが、数年前までは宇出津の近くでもたまに見かけることのあった蛸島の浜田漁業のトラックを見かけなくなったと思いだし、同じく検索で調べたところ、倒産情報があり、それがほとんどリアルタイムに近い情報で驚いたこともありました。

金沢市神野の輪島屋鮮冷のアパートの事務所には一度行ったことがありました。他に経験のないことですが、面接に付き合いを頼まれて同行したのです。面接の同行など聞いたこともなかったので驚いたのですが、そういう経験もありました。

面接の同行を頼んできたのは、宇出津の1つ年下のKでした。思えばKともあれ以来会っていないようにも思いますが、何をしているのかどこに行ったのか、噂にも聞いたことがありません。

Kは宇出津の城野町に家があって、私の1つ年上の兄がいました。その兄は小木分校に行っていたので、被告訴人KYNもよく知っているはずですが、その兄の話も全く聞いたことがありません。今はほどんどがそうなっていますが、早い時期から話を全く聞かなくなりました。

Kとは当時、多少の付き合いがあったのだと思いますが、久しぶりの再会でもあったと思います。どこで再会したのかも思い出せないですが、私が昭和59年の10月に金沢市場輸送をやめてすぐの頃、Kも金沢市場輸送に入社して、しばらく4トン車で長距離の仕事をしていたとも聞いていました。

面接の同行に関しては、似たような話を聞く機会が一度だけありました。普通はあり得ないことだと思うのですが、アパートを事務所にしているような会社であれば、慎重な様子見ということで、そういう気にもなることがあるのかもしれません。

Kにしても面接で即決で採用にはなったものの、仕事には行かなかったように思います。

輪島屋鮮冷に関してはその頃にもうわさ話のようなものを聞いていたと思いますが、社長として輪島屋鮮冷を始めた人物は、丸西水産輸送で配車係をしていたという話でした。運転手をしていた頃、事故を起こし飼い殺しのような状態になっていたとも、聞いたような気がしますが、真偽は不明です。

早い段階で七尾市の石崎(いっさき)の出身だとも聞いていましたが、石崎ではなく和倉のボンボンと聞いたこともありました。和倉温泉は全国的にも知名度の高い、温泉地だと思います。「加賀屋」は以前、テレビでもよく取り上げられていました。

中西運輸商の社長も七尾市の石崎の出身だと聞いていましたが、こちらは違うという話も聞いたことはなかったです。

石崎も和倉も、七尾市の一部にはなるはずですが、七尾市の町内ではなく、独立した町というイメージが強いです。石崎に関しては「石崎奉燈祭り」として聞くことが石川県内では多いかと思います。

同じ能登でも、かなり離れているので余り知らないのですが、漁師町で気が荒く、話し言葉も汚いと聞いていました。輪島市の海士町と似たようなイメージだったので、輪島港ほどではないにせよ、それなりに大きな漁港をイメージしていました。

石川県立水産高校小木分校で同級生だった波並の同級生が、高校を卒業して七尾市の石崎の魚屋に就職したという話も聞きました。別の高校の能都中学校の同級生の女子も和倉温泉の加賀屋に就職したという話を聞きましたが、同じ高校卒業直後の時期だったと思います。

石崎の魚屋に就職をしたという同級生には、昭和63年ころだと思いますが、一度、富山県氷見の魚市場で、たまたま顔を合わせたことがあり、相手も驚いていました。7599の大型保冷車に乗務していたときのことです。

普通、金沢や羽咋市から宇出津に向かうには七尾市内は通過しないのですが、七尾市内から宇出津に向かうと和倉温泉駅の前を通り、その付近では電柱に「石崎町」という住所の看板は見かけていました。

一月ほど前の8月の下旬、穴水町までバイクで買い物に行ったのですが、思ったような商品が見当たらず、思い切って七尾市まで足をのばしたのですが、その時に初めて石崎の漁港を探して行ってみました。

予定外のことで下調べもなく、適当に見当をつけて走っていると、能登島まで渡ってしまいましたが、その能登島大橋を渡ったのは2度めのことで、平成3年の5月か6月に家族を連れて、のとじま水族館に行って以来のことかと思います。

能登島には小木分校の高校一年生だった昭和55年に、水産高校の「おおとり丸」という船で、40人ほどの無線通信科の同級生と行ったことがあったのですが、その頃は橋もなく、橋が出来るという話も聞いておらず、完全な島という状況でした。

看板を頼りに石崎の漁港と思わえる場所に行ったのですが、余りの港の小ささと漁港らしくなさに驚きました。魚市場のような建物もありましたが、松波の漁港より小さく、船の数も少なく見えました。

ずっと前に一度来たことのある場所だという気もしましたが、誰かの車に同乗している時に来て見た風景だとは思いましたが、石崎の港という認識はなかったように思います。

伝統のある江戸時代の名残も残っていそうな漁港をイメージしていたのですが、思い描いていたものとはまるで違い、漁港というよりヨットハーバーに近いような印象でした。

石崎に向かう前には、和倉温泉の方にもバイクで行っていたのですが、和倉温泉の方は想像していたよりはるかに規模が大きい温泉地で旅館の数も多く、セブンイレブンのコンビニまであるので驚いていました。

和倉温泉には昭和61年の1月、中西水産輸送の新年会で旅館に一泊したことがあったのですが、たぶんそれ以来ではないかと思います。それ以前にも行ったのはダクト屋の仕事で、美湾荘に行った記憶があるぐらいですが、当時はほとんど関心もなかったのか、記憶に残る風景も僅かなものでした。

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