原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年9月17日

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ラブロ片町 – Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%AD%E7%89%87%E7%94%BA

ラブロという名前にも記憶に自信が持てなくなっていたので、確認を兼ねて調べてみました。アトリオに移ったのは昭和61年9月とのことです。個人的には、たぶんラブロになってからは一度も店に入ったことがない気がします。

飛び降り自殺があって客足が遠のいたという話も聞いたことがありました。大和デパートの頃は、屋上に近い階にレストランがあって、そこに何度か行ったという記憶が残っています。

そのラブロの裏辺りのスナックのような飲み屋でバーテンをしていると、不意に被告訴人安田敏から電話があったはずです。その電話のことは余り記憶には残っていないのですが、昨日書いたようにラブロの横の方から歩いて店を探したことが鮮明な記憶になっています。

店の名前は「ハートブレイク」だったと思います。わかりやすい名前で、昔聴いていた曲の歌詞にもある言葉でした。

よく考えてみると、その「ハートブレイク」という店で仕事をしているという被告訴人安田敏が、電話を掛けてきて、支払いはいらないから遊びに来いと誘ってきたこともありました。2回ほど同じような電話があったような気がしますが、これも記憶がはっきりしなくなっています。

誘われても店に行くことはありませんでした。長距離運転手という仕事柄、自宅アパートでは不在が多かったはずで、たまたま電話を掛けてきた時によくいたものだという気もしますが、妻から被告訴人安田敏から電話があったという伝言を聞くことはなかったように思います。

内藤として別になると思いますが、妻からの伝言で、被告訴人安田敏が内灘の海岸で車が砂にはまって動けなくなったので助けに来てほしい、という電話があったと聞いたことはありました。これは時系列で終わりの方の電話だったと思います。

その後、また電話があったのだと思いますが、電話のことは思い出せないものの、その時は初めて会う約束をしました。たぶん日曜日だったと思います。当時は記憶をしておく必要も考えてはいなかったので、時期がはっきりとは思い出せないのですが、平成2年の秋だったと思います。

それまでも忘れた頃に被告訴人安田敏から電話での連絡はありましたが、会うことは一度もなかったと思います。サムライというディスコで働き出したといううわさ話を聞く前から会ってはおらず、その時点を基準にしても一年以上は会っていなかったような気がします。

夕方でもまだまだ明るい時間、神田の陸橋の手前のバス停からバスに乗って片町に向かったことを憶えています。たぶん、その日の午後に被告訴人安田敏から電話があったのだと思います。

東力二丁目のアパートには昭和59年の4月頃から平成4年の4月1日まで8年ほど住んでいたことになるかと思いますが、車がないと不便があったものの、バスを利用するというのもほとんどないことでした。

初めにどこで待ち合わせをしたのか記憶にはないですが、片町のスクランブル交差点、当時もあったかどうかわかりませんが、ミスタードーナツがある建物の2階か3階あたりの店に入って、ラムネの瓶のような酒を飲みました。バーボンなのかと思います。

被告訴人安田敏に勧められるままに飲んだのだと思います。店員と話をするようなスタイルの店でもなかったですが、古い時代のアメリカのような雰囲気の店で、ジュークボックスがおいてあったと思います。

その店で話をした時だったと思いますが、バーテンの仕事をやめたと話していました。かなり不本意そうな様子で、愚痴をこぼしていましたが、会話の内容は今ではほとんど思い出せなくなっています。たぶん失業中だったのか、他に仕事をしているような話をしていたような気もするのですが。

この時、私は「ハートブレイク」という店のことだと思って話を聴いていたように思います。店でごたごたがあってやめるようになったという話だったと思いますが、ずいぶんと未練もありそうでしたし、悲しそうに話していました。

そのあとだったと思いますが、被告訴人安田敏の住んでいるというアパートに行きました。片町では他にも店に入ったような気もしますが、食事をしたかどうかを含め思い出せなくなっています。

被告訴人安田敏はアパートの住所を金沢市十三間町と言っていたように思います。片町の路地裏のはずれのような場所でしたが、その辺りには池田町というのもあります。瓢箪町のNMと末町のTHが住んでいたのも池田町でした。

Googleマップで確認をしたのですが、十三間町の方が犀川沿いに近いようです。その界隈の路地裏としては車も通るような比較的広い道で、店も何もなくなってしばらく歩いてから交差点の左側の角にあるようなアパートだったと思います。

アパートと言っても普通のアパートのような集合住宅という感じの建物ではなく、古い建物で下宿というイメージが強かったと記憶にあります。被告訴人安田敏の部屋は2階でしたが、それも普通のアパートのような間取りではなかったです。

雑然とした屋根裏部屋のような印象もあるのですが、アメリカ人のような生活スタイルというか、昔漫画の場面で見たアメリカの貧民街の部屋の一室のような、雰囲気になっていました。横長の部屋であったような印象もありますが、襖とか障子もなかったような気がします。

趣味のアクセサリー関係の物や衣服が多かったように思いますが、ずいぶんと物が多いという印象も受けました。いつからどれぐらい住んでいると聞いたようにも思いますが、それも私の記憶には残っていません。

そのあと、小立野の方に行きました。金沢大学附属病院の辺りで、ちょうどその正門の前辺りだったと思います。小立野は市内配達の受け持ちコースでもあったので、土地勘もありましたが、病院の前に飲み屋があるのも意外でした。

正確に言うと飲み屋というよりは、洋風のレストランと喫茶店の中間にも見えるような店でした。本当ならば海際の観光地によくありそうな建物の店でしたが、それが小立野にあるというのも、ずいぶんと意外でした。

半年ぐらい前になりますか、Googleマップのストリートビューで、小立野の大学病院の前あたりを見たことがあるのですが、すっかりと様変わりして以前の面影はあとかたもなくなっているという感じでした。

兼六園の裏の方から広い道が一直線に伸びていて、小立野辺りは古い町並みの商店街のようにもなっていましたが、兼六園の方から向かうと、左折して50メートルほどかの突き当りに大学病院の正門がありました。

その正門の手前左側の辺りに店はあったと記憶しているのですが、正門につながる広い道路より、左手の路地に入ったような一角だったという気がします。小立野の周辺というのは大学生が多いという印象もありますが、飲み会に使うような店はその辺りに集まっているような気もしました。

被告訴人安田敏に連れて行かれたその店でも、バーボンのようなウィスキーを飲んだように思います。ワインの瓶にも似ているかと思いますが、そういう瓶に入っているウィスキーを置いている店というのは、他には見たことも行ったこともなかったと思います。

かなりマニアックな凝った雰囲気の店でもありましたが、その店の被告訴人安田敏の友達か知り合いのような店主と思しき人も、ずいぶんと個性的な雰囲気でした。矢沢永吉によく似ていましたが、なりきりのようなこだわりも感じられました。

被告訴人安田敏はそういう飲み屋の雰囲気が好きだったのだと思いますが、本人の話では酒はそれほど好きではなく、晩酌のようなことをすることもないと言っていました。

今考えると被告訴人安田敏は余り酒が強くはなかったのかもしれません。たぶん昭和57年の鵜川の祭りでも、酒に酔って座り込む姿を見たことがありました。

私も当時は酒というかアルコールは飲む量が少なかったと思いますが、被告訴人安田敏もそれほど注文を繰り返して飲んでいるようにも見えなかったように思います。

どれぐらいの時間店に店にいたのかもはっきりとは思い出せませんが、店の外に出たところで、被告訴人安田敏がへたりこんでしまったのは印象的でした。座ったまま動かなくなったのですが、受け答えはしっかりしていて、ろれつが回らないようなこともなかったと思います。

被告訴人安田敏は私にタクシー代をくれたように思います。大丈夫だというので、そのまま帰って来ました。はっきりとは憶えていないですが、別れたのも22時とかそういう時間だったと思います。

中島みゆき わかれうた 歌詞 http://j-lyric.net/artist/a000701/l005ee2.html

ふと思い出して上記のように曲の歌詞を調べてみました。「途に倒れて誰かの名を叫び続けたことがありますか」と、上記ページでは道路の道ではなく途になっていましたが、その時もこの曲のことを思い出していたのかもしれません。別れ際に後ろ髪を引かれるような思いはありました。

小立野の手前が石引ですが、松原病院は石引が住所になっていたように思います。シンナー中毒で精神病院に入ったことで、被告訴人安田敏は周囲から偏見や仲間はずれを受けてきたような、一面もありました。

今思うとその後も私の方から連絡をすることはなかったのですが、しようと思っても直接アパートを訪ねる以外、方法はなかったとは思います。車で行けないことはない場所でしたが、片町の近くで酔っぱらいに車を蹴飛ばされる可能性もあり、駐車の場所もないので、車で行く気にはならなかったです。

人生の悲哀が漂った被告訴人安田敏の姿でしたが、その後彼からも連絡はありませんでした。

次にまた忘れていた頃に連絡を寄越してきたのが、平成3年の4月の終わり頃だったと思います。前回の別れが後ろ髪を引く、良心の呵責をおぼえるものであったことも、その後に影響をしたのだと思います。

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